第一回 卒業と就職 -パラレルワールドの自分に思いを馳せるー
人生の節目において、人はよく過去を振り返る。
思い出せもしない幼少期の記憶から、すぐ手の届く位置にある1週間前の出来事までそれらは同じようにただ「過去」という大きな枠組みに振り分けられ、「思い出」として昇華されていくのだ。
先日、ありがたいことに大学を卒業することが出来た。学生時代の最後を告げる式典の最中であっても、私は決して表情を揺らさなかった。
小学校から始まり、中学、高校、さらには大学まで。大して勉強が好きなわけでもないのによくもここまで頑張ったものだと、初めて自分をほめてあげた。
感動で涙を流す者、新しいステップへ踏み出す自分に期待を抱く者、何も感じない者。様々な人間が乱雑に会場を出たり入ったり。
人が多いところは苦手です。まったくもって。
式を終え、友人との別れを惜しみ、帰路についた。愛すべき我が家はすぐそこだ。
夜になり、お決まりの感傷人間タイム。私も人の1人であるため、例外なく過去の記憶を思い出へと昇華していった。もちろん、孤独に。
モラトリアムの時代が終わり、自分が社会人というごく一般的な肩書きに成り下がるにあたって憂鬱なことは尽きないが、その中でもひときわ私の記憶の中で輝いた憂鬱がいた。
「働く」ということに関しては、何も大学を卒業する必要性はない。高校卒業、中学卒業のタイミングでだって充分にその転機であったろう。
大学まで卒業してしまうと、いかんせん頭がよく回るようになってしまい、考えなくてもいい世間体なんかを気にしてしまう。
”いい大学を出ていれば、いい企業に就職すべきだ”
何も私がいい大学を出ているなんてことを言いたいわけではない、決して。
ただ一つ言えるとすれば、大学に通っている人間のほとんどは自分がいかに世界の中で優れた側の人間かという事実に気づいていない。
社会やネットがいかに特定の大学を非難し、侮辱しようとも、その大学を卒業することはとてつもなく優れたことなのだ。
話が逸れてしまった、本題へ戻ろう。
世間体気にしすぎ人間の私は、結局ふつうの企業に就職することになった。
おめでとう、ふつうの私。
しかし、思い出の中の私、中学校時代の私は、こういった結果になってしまった自分をきっと悲しんでいるだろう。
普通が一番つまらない。これは昔も今も変わらず私の心を占有している。
もし高校から働き始めていれば、もし中学から働き始めていれば。
そんな思いが駆け巡る。
ありえない世界の、ありえない自分に思いを馳せる、ふつうの私。
なんともみじめな姿ではないだろうか。あゝ、無情。
しかし、隣の芝生は青く見えるもの。こんなことはよくあることだ。しかし、その芝生はもしかしたら私の芝生だったかもしれないもの。ううん、無情。
とか何とか言っていたって、明日はやってくる。君にも、私にも。
過去がいくら悲しみにあふれていたって、今が悲しいわけじゃない。
前向きに、明日を生きていこう。また明後日も。
そういえば今日、正社員として初めて出勤してきました。
つまんなかったです。世界は悲しみにあふれている。
さっさと仕事を辞めて社会から逸れよう。それがいい。
ふつうの私とサヨナラすることになるのはいつになるやら。
その時もまたきっと、ここに残したようなことを思うのだろう。
人間って強欲。でも、私好きよ。